谷和樹の解説
一番大変な子の味方になる |
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まさや君は体が大きくて暴れん坊でした。
5年生の頃には「反抗挑戦性障害」気味だったと思います。
「うるさいんじゃ!」
「こっちくんな、ババア!」
等と教師に向かって罵ってました。
6年生になって私が担任しました。
特に問題ありません。
根はいい子なんです。
さて、6年の家庭科は専科の先生が教えます。
この家庭科の時間になると、まさや君が暴れます。
家庭科の先生の言うことはまったく聞きません。
課題もやりません。
勝手に好き放題しゃべります。
2学期からは手が付けられなくなりました。
家庭科の先生は、私にSOSを出します。
家庭科室からインターホンで私を呼ぶのです。
私が家庭科室に入るとまさや君は静かになります。
私が後ろで座っていると、まさや君も普通に座っています。
大丈夫だと思って出ていくとまさや君は暴れます。
まったく根本的な解決になりません。
原因はハッキリわかっています。
家庭科の先生の授業がひどいのです。
先生が非常に怖い。
怒鳴って怒る。
授業は意味がわからない。
その家庭科の先生は私よりずっと上のベテランでした。
もちろん私のアドバイスなど聞きません。
まさや君が暴れるのを、担任の私の指導不足のせいにして、私を毎時間呼び出すわけです。
そんなある日のことです。
まさや君がまた暴れるというので、インターホンが鳴りました。
私が行くともちろん静かになります。
しばらくいましたが、大丈夫かなと思って家庭科室を出ました。
教室で待っていると、子どもたちが帰ってきます。
最初に帰ってきた真面目な女子たちが、教室に入るやいなや、私の周りに集まって口々にいいました。
「先生、あの後、まさや君が大変だったんだよ!」
また暴れたのかと思って、話を聞きました。
ところが、女子たちは次のようにいうのです。
「まさや君は確かに暴れたよ」
「でも、家庭科の先生がおかしいと思う」
「まさや君がいくら悪くても、あんな言い方は先生がしてはいけないと思う」
クラスの子たちは低学年からまさや君を見ています。
本当は優しい子だって知っている子もたくさんいます。
そうこうしている間に、まさや君がフラフラと教室に戻ってきました。
まずは給食を食べて満腹にします。
給食後の昼休み。
まさや君を呼びました。
「家庭科で、あの後、いろいろあったんだって?」
「・・・はい」
私にはまあまあ素直に話すのです。
「そうか。まあ、まさやの気持ちもわかるぞ」
「・・・」
「家庭科に行きたくないのか?」
「・・・はい」
「そうか・・・」
少し沈黙してから、私はいいました。
「じゃあ、今度の家庭科の時間からは、ここで谷先生と勉強するか?」
まさや君はしばし考えましたが、頷きました。
「・・・はい」
「そうか、じゃあ、そうしてもいい」
私はゆっくりと続けました。
「そうしてもいいけど、それはかなり特別なことだ。わかるだろ?」
「・・・」
「だから、校長先生と、家庭科の先生と、まさやのお父さんお母さんに集まってもらって、まさやが家庭科をしないことをお話しなければいけない」
「・・・」
「谷先生は、まさやの味方になって説明してやるから、そうするか?」
「・・・」
長い沈黙が続きました。
「もう少し、家庭科を続けてみてからにするか?」
「・・・はい」
このときは、それで少しだけまさや君の態度も変わりました。
でも、もしまさや君がそうしたいと言ったら、私は家庭科の先生に直談判し、校長と保護者に告げた上で、私が教室で教えるつもりでした。
この家庭科に限って言えば、まさや君に問題があるわけではないからです。
乱暴な方法ですし、非現実的かも知れません。
でも、私がそういったことを考えたのは、向山の著書の事例を読んだ影響かも知れません。
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一番大変な子の味方になる
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そのことにこだわっていたのだと思います。
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1 雨の校庭をながめていた場面 |
『斎藤喜博を追って』は向山のデビュー作です。
その中に次の記述があります。 |
「ぼく死にたいんだ」 —情緒障害—
放課後、雨の校庭をながめていた時だった。4年生の男の子がぼくの側に来てしばらく休んでいた。
彼はしばらくして「ぼく死にたいんだ」と、ぽつんと言った。「どうして?」と、思いがけない言葉を聞いて、どぎまぎしながらたずねた。
「ぼく、馬鹿だから・・・」
はっきりとした口調で答えた。
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直筆原稿でご覧いただきましょう。
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この原稿。
サラッと書いてあります。
ですが、重要なことが含まれています。
まず、次の記述です。
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放課後、雨の校庭をながめていた時だった。
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放課後に、雨の校庭をながめていたというのです。
いや、もちろん、たまたまなのかも知れません。
でも、雨が降っている放課後ですよ。
みなさんは、校庭をながめたりしますか?
体育主任ならあるかも知れません。
校庭のコンディションが心配ですから(^^)。
でも、向山がそのときに校庭をながめていたのは、たまたまではないかも知れません。
「雨」です。
雨は子どもたちを落ち着かない状態にすることがあります。
放課後、子どもたちがチラホラと残っている校庭付近。
それを向山が何気なく「観察」していた。
そういった可能性もあると私は思います。
深読みしすぎでしょうか。
そして、次のように文章は続きます。
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4年生の男の子がぼくの側に来てしばらく休んでいた。
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まず、向山は「4年生」と断定します。
なぜ「4年生」とわかったのでしょうか。
この年、向山は6年生の担任でした。
その子の顔を見たことがあったのかも知れません。
後で調べたのかも知れません。
名札がついていたのかも知れません。
いずれにしても、興味深いところです。
次に「ぼくの側に来て」です。
なぜ、その子は向山の側に来たのでしょうか。
向山は当時6年生担任です。
体の大きな先生です。
一見、怖そうにも見えます。
その先生の側に、普通4年生が来るでしょうか。
「しばらく」休んでいたというのです。
さらにです。
「ぼく、馬鹿だから・・・」
というその子に
対して、どぎまぎしながらも、
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30分近く、ぼくは熱心に話を続けた。
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とあります。
「30分近く」です。
「熱心に」です。
向山の「大変な子の味方になる」というマインドが非常に強く現れていると思います。
深読みしすぎでしょうか。
でも、私は次のようなことを勝手に推定します。
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1 向山は「雨」の日などに校庭などをザッと観察することがあった。
2 たまたま出会った子どもたちの学年・名前などをできるだけ覚えようとしていた。
3 障害を持つ子にとって「近づきやすい」穏やかな「オーラ」のようなものがあったかも知れない。
4 向山は子どものことを第一に優先し、大変な子の味方になるというマインドが強かった。
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まったく根拠はありません。
学術的でもありません。
でも、私も長年の教師経験があります。
上のような描写がかなり重要な意味を持つようにも思えるのです。
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2 名札をつけている子をほめる場面 |
この後、5年生になったこの子を向山は担任します。
その5年生の学級通信の4月7日。
No.3に次の記述があります。
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始業式が終わって教室に入った。始業式の時、しきりに穴を掘ったりしていた男子、4、5名立たせ、そのだらしなさを批判した。伊藤、竹山、芝原の3名を次に立たせた。この3名だけが名札をつけていた。出逢いのときに、名前を覚えるのに必要なのだ。その3名をほめ〈それであたりまえだとほめ〉残り全員を立たせた。新学期の出逢いに「諸君がそんなに鈍感で、無神経なら、俺はこの3名しか名前を覚えない」と、きびしく言った。教室はシーンとなっていた。
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この中に「芝原」として登場するのがその子です。
この「名札」をめぐる指導は、かなり苛烈です。
全員を立たせて、
「諸君がそんなに鈍感で、無神経なら、俺はこの3名しか名前を覚えない」
と言い放つのですよ。
あなたならできますか?
私なら難しいです。
そして、です。
この時、その芝原は「名札」をつけていたわけです。
これは、たまたまでしょうか。
たまたまかも知れません。
でも、向山はある程度計画していた可能性もあります。
向山は4年生のときから芝原と出会い、雨の日に話をしていました。
その後も、芝原が「すごく乱暴をする」ということを聞いています。
学校の教師の一人として関心をもって彼を見ていたわけです。
そうした中、芝原は名札をつけているということに、向山はあらかじめ気づいていたのかも知れません。
芝原の描写からは、今でいうASD傾向も疑われます。
名札をつけていない子が多い中、芝原が名札だけは継続的につける傾向があったことは十分に考えられます。
この学級通信「スナイパーNo.3」はものすごい密度です。
この中で、向山は芝原を何度も何度もほめます。
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1 名札をつけていたことをほめた
2 サッと手を挙げたことをほめた
3 発言したことをほめた
4 またサッと手を挙げたことをほめた
5 自信がないという正直さをほめた
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明らかに計画的です。
「絶対に芝原をほめる」と決めていたのです。
そのことは『教師修業十年』に書いてあります。
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始業式の日、事実で彼をほめなければならなかった。子どもの世界では、わざとらしいことや嘘は通用しないからである。ぼくは彼の着ている服がぼくと同じでもほめようと思っていた。そのためジーパンをはいていったほどだった。彼が立っている地面がきれいでもほめようと思っていた。ほめることができるかどうかが、彼との最初の勝負だと思っていた。そして、できれば、子どもたちにぼくの基本の構えを話しておきたかった。
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ところが、実際には芝原の着ている服は向山と同じではありませんでした。
芝原の立っている地面は他と比べてきれいでもありませんでした。
その場で直感的に「オプションB、C・・・」と進んでいったのです。
服も地面も使えませんでした。
芝原が名札をつけてくるか、手を挙げるかも、やってみないと分かりません。
その場で見て取るしかありません。
でも、名札をつけてきた場合を、向山が想定していた可能性はあり得ます。
それほど周到に計画していたのです。
その上で、その場での子ども達の様子と反応を見て、その計画を離れるのです。
「わざとらしいことや嘘は通用しない」からです。
計画は離れますが、しかし「計画したからこそ」、だからこそ、そこに意識が向きます。
致命的な誤差が生まれにくくなるのです。
向山はその出逢いの後、
「そのあと2時間、何も手がつかないほど、つかれていた」
と学級通信に書いています。
格闘技に近い感覚なのです。
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3 向山が準備をする場面 |
雨の校庭で芝原と話をした翌年。
彼を担任することになった向山は3月28日から準備をはじめます。
『教師修業十年』には52冊の本を読んだとあります。
何人もの医者をたずね、聞いてまわったとあります。
その向山が当時書いたノートが残っています。
40枚以上に及ぶそのノートには、当時、向山が何を学び、何を準備したかが克明に書かれています。
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これは、芝原が4年生のときの記録です。
前担任の報告から向山が自分でまとめているのです。
5月から11月の記録まで3ページ続きます。
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これは、向山が読んだ52冊の本からの学びでしょう。
こうした記述が17ページにわたって綴られています。
法律、専門書、シリーズ本、お医者さんからの聞き取りなどです。
広範に専門的に学んでいます。
そのうえで、具体的な準備をします。
第一に親との面談です。
当然、行き当たりばったりで面談するのではありません。
膨大な書籍と専門家からの学びをもとに、具体的な方針を確定します。
そのうえで、親と話すのです。
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とりわけ、下部に書かれている7つです。
これが『教師修業十年』に出てくる「8つのお願い」の下書きでしょう。
ぜひ『教師修業十年』を読んでください。
ここでは、要点だけまとめて載せておきます。
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1)「できないこと」ではなく「できること」をさせる。
2)「何ができた」ではなく「自分でできた」ことを重視する。
3)できなくてもあせらないで待つ。
4)できたことを足場にして少し先をさせる。
5)「駄目」「馬鹿」等自信を失わせることは言わない。
6)悪いことをしたらなぜ悪いのか理由を話す。
7)生命の安全に関することはきびしく叱る。
8)自信を持たせ、意欲をおこさせ、生きていく力と術を教えること。
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現在の発達障害の子どもたちへの対応でも、まったくそのまま通じる原則だと思います。
第二に向山が出会いにあたって準備していたメモです。
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このメモをもとに向山は実践しました。
実践したことをもとに学級通信を書きました。
そしてそれらを「調布大塚の生活指導」という冊子にまとめて発表しています。
そうした一連の記述をもとに、私は「向山洋一がたどった特別支援教育の歩み」という記事を連載したことがあります。
上のメモの内容にも触れています。
よかったらそちらも合わせてお読みください。
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『特別支援教育』誌 全25巻
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また、同雑誌の記事は『ささエる』(特別支援教育総合WEBマガジン)というネット記事でも一部読めるようです。
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ささエる(特別支援教育総合WEBマガジン)
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※注)
向山の直筆のメモには、
「ぼくは馬鹿だから…」は芝原が3年の時に向山が本人から聞いたと書いてある箇所もあります。
『教師修業十年』に記載するにあたって、事実関係を調整して書いた可能性もあります。 |
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